【アクテムラとわが研究人生 vol.17 片桐先生との縁】
2024.12.24
片桐先生との縁
米国留学を終える頃まで、時間を少しさかのぼる。
1981年3月末、デービスの町に別れを告げ、家族と共にレンタカーでサンフランシスコ空港に向かった。日本では4月から長男が小学3年生、長女が小学校に入学というタイミングに合わせて旅程を立てた。空港に近接した町メンロパークにはStanford大学があり、キャンパス近くにStanford Research Institutes(SRI)があった。AB50やAM682を合成した森陸司さんと高久栄さんがそこに派遣中で、その夜は森さん宅で盛大に送別会を催してくれることになった。レンタカー返却の方法などで、Gershwin研究室のテクニシャンWilfred Saitoさんと電話で会話している様子を聞いていた高久さんが、「英語、ペラペラだね!」と言った。英会話も度胸だけは身に付けたようだ。その日のうちにレンタカーの返却を済ませ、翌朝、森さんがマイカーで空港まで送ってくれた。周囲の方のアドバイスもあって、時差ぼけ軽減のために途中ハワイに1泊し、ワンクッションおいて帰国した。ハワイ空港の出発ロビーのギフトショップで、ムームー姿の日本人の子供2人が流ちょうな英語でペチャクチャおしゃべりしている様子を見て店員が驚いていた。当時、末娘は5歳で、日本語が全く話せなかったのである。
翌82年、B細胞の活性化の原因は何なのかを突き止めるため、東京大学医科学研究所の片桐拓也先生(後にいわき明星大学教授)との共同研究が始まった。先生と巡り合ったのは、帰国してわずか2カ月しかたっていない81年5月だった。一緒にカルフェニールを研究した中野利昭さんが東京大薬学部の大沢利昭教授の研究室に留学した当時、片桐先生はその研究室の大学院博士課程の学生だった。その片桐先生が、卒業後に助手として着任したのが東京大医科学研究所免疫学教室の狩野恭一教授の研究室だった。同研究室の藤原道夫助教授は、自己免疫疾患を引き起こす免疫寛容の破綻のメカニズムを解明する研究に取り組んでいた。
「免疫」とは読んで字のごとく、「疫から免れる」ことで、我々の体内に侵入した病原体を退治するために作動する生体防衛機構であり、感染症から身を守るために仕組まれた重要なシステムである。免疫の仕組みは神秘的とまで呼ばれるほど巧妙で、外敵には攻撃を仕掛けて排斥するが、内なる物質には免疫反応を営まないように厳重に監視されている。この現象を免疫学的寛容状態と呼んでいる。しかし、何らかの原因でこの寛容状態が破綻すると自己の成分に対して免疫反応を引き起こし、自分自身の細胞や組織を攻撃し、障害をもたらす。これが自己免疫疾患で、根本的原因は現在でも分からないが、遺伝的要因に環境要因が加わって発症すると考えられている。
藤原先生は、自己免疫疾患はT細胞に依存しないB細胞の異常活性化によって起こるとする私が留学中に得た一連の研究成果に共感され、東京大医科研でのセミナーの講演に招待いただいた。先生の専門だったB細胞の寛容破綻のメカニズムと、私のB細胞異常活性化説との関係に興味を持たれたと思われる。それが片桐先生との縁だった。
研究室のボスである狩野先生はリンパ球表面上のある特定の糖鎖構造に興味があり、片桐先生に対してMRL/lprマウスという全身性エリテマトーデス(SLE)のモデルマウスのTリンパ球を解析するよう命じた。この解析研究には蛍光標識細胞ソーター(FACS)と呼ばれる高額機器が必要だった。この機器は当時日本にはたった3台しかなく、片桐先生はこれを使うために中外製薬の研究所にしばしば来所した。そしてMRL/lpr由来のTリンパ球に特定の糖鎖が検出されるという結果を見いだして論文を発表した。さらにこの糖鎖異常がリンパ球の増殖に関係しているのではないかと考えて研究を進めた結果、この異常に分裂増殖するT細胞ではFynと呼ばれるチロシンキナーゼの活性化が生じていることを見いだした。これらの知見から、リンパ節細胞をすり潰せばその中に細胞の増殖を促す因子が含まれているであろうという発想が芽生え、片桐先生と我々との共同研究のテーマとなった。それが、B細胞を刺激し自己抗体産生を誘導する因子の存在を示唆する発見につながり、85年に論文発表した。
ちょうどこの研究の進行中に、米Scripps Clinic and Research FoundationのArgyrios Theofilopoulos博士らがl-BCDF(B cell differentiation factor)の発見を発表した(83年Journal of Experimental Medicine誌)。本連載の第13回目に登場したDavid Katz研究室の所属である。これらを見て片桐先生は敗北を決め、それ以上は追究しないでそれまでに得られた実験結果をまとめて論文を発表した(85年)。ところが、l-BCDF研究がその後、どういう結末を迎えたのかよくは分からない。論文を探しても経過をたどることができず、この因子の遺伝子も見つけられていないようであるし、これらに関する特許出願も存在しないようだ。
前回紹介した、浜岡利之先生によって発見されたB151-TRF2(T cell replacing factor 2)が、自己抗体産生の原因因子かもしれないと報告されたのは86年(Ann. Rev. Immunol.)なので、当時の一流研究室が競い合って自己免疫疾患の病因としてのポリクローナルB細胞活性化現象の仕組みを解明することに、いかに精力を割いていたかが分かる。
私は浜岡先生らが、TRF2がB細胞を活性化して自己抗体の産生を誘導することを見いだしたのを知って、B細胞阻害薬の探索研究にTRF2を応用することを思いつき、浜岡研との共同研究提案も提出した。しかし、その後の研究でTRF2はマウスの遺伝子由来ではないことが判明し、残念な結末を迎えた。
ところで、私を浜岡先生に紹介してくださったのはミコフェノール酸で移植実験の指導を頂いた藤井源七郎先生(本連載の第6回に登場)である。81年のことだったと思うが、紹介状を持って当時大阪大学の中之島地区にあった医学部敷地内の癌研究所を訪れた。カルフェニールの免疫調節作用について深く理解するためには、本邦で最も優れた免疫学者の指導が必要と思ったからである。私は、カルフェニールについて実験データを示しながら説明を始めた。午前中に始まった会合であったが、先生は我々の研究に大層な興味を持たれたのか、委細・詳細にコメントや質問を投げ掛けた。正午を回った頃、食事をしようということになり、いったん休憩に入ったが、それが終わると引き続き実験データの打ち合わせが始まった。終わったのは夕方になっていたように記憶している。先生のこのような真摯な研究姿勢・人格に心を打たれた。それ以来、長いご指導・お付き合いを賜ることになった。
初出:日経バイオテクONLINE 2017年1月10日掲載。日経BPの了承を得て掲載