【アクテムラとわが研究人生 vol.4 仕事に東京も大阪もない】
2024.09.24
仕事に東京も大阪もない
何となく大学院に進学し、成り行きに任せて研究生活を送っていたが、同じ研究室にいた妻と結婚することになり、生計を立てるために就職しなければならなくなった。妻も私も生まれ育った大阪近辺での就職を希望していたが、同じ学部出身で、中外製薬に就職していた先輩の西井易穂さんが研究室に頻繁に足を運び、指導教官に学生のあっせんを依頼していたそうで、教授からは中外製薬への就職を打診された。故郷から遠く離れることに抵抗があったが、先輩の話を聞くうちに中外製薬の研究所で働いてみようと思うようになった。「研究者の自由度が高く、活気に満ちあふれ、やりがいのある職場」であると説明していただいたからである。
大阪には武田薬品工業、塩野義製薬、大日本製薬(現大日本住友製薬)、藤沢薬品工業(現アステラス製薬)など大手製薬企業がひしめきあっていた。武田薬品の研究所は大学の教授クラスの実力者がそろっていると聞いていた。マンモス企業では歯車の1つになってしまうことが容易に想像できたので、中堅企業の研究所に入ることを望んでいた私にとって、中外製薬はそのクライテリアにも合致していたといえる。妻や私の家族のことを思うと“東京か大阪か”と心を決めるのに難渋したが、浜助教授の「男が、一生の仕事を決めるのに、東京も大阪もない!」というアドバイスが背中を押した。
中外製薬に入社した1969年は、グロンサンショック(肝臓に作用する疲労回復の薬として莫大な売り上げを上げていた「グロンサン」に「効果無し」との批判を専門医から浴びせられて一気に危機的な経営状態に陥った)から脱し、4年ぶりに新卒者採用が再開された年である。営業要員や研究開発要員として大卒者二十数人と修士卒5人が採用された。
無事に就職も内定し、妻の両親に結婚の承諾を取りに行ったときには、義父から「従業員数は何人の会社か? 一部上場企業なのか?」などと質問された。私の答えに安心した様子ではあったが、義父は中外製薬という社名を聞いたことがなかったようで、なぜ、武長(一般には武田長兵衛氏を略してタケチョウと呼ばれていた)ではないのか、塩野義ではないのか、と不審に思ったに違いない。
上京に際し、父から「五カ条の人生訓」と私が勝手に思っているメモのようなものを授かり、その後何年間か手帳か何かに挟んでポケットに入れていたように記憶しているが、いつの間にかどこかに失くしてしまった。その中に、「酒を飲んで二日酔いでも、朝必ず会社に行くように」というアドバイスがあった。ある朝、その忠告をしっかりと守って出社したものの、耐えられなくて誰も居ない研究室の実験台の脇で白衣を敷いて横になっているところを後から出社してきた後輩に見つかり、このことは今でも飲み会のときの酒のつまみにされている。他の4つの条文がどんなものだったのか今はすっかり忘れてしまった。
69年4月に入社し、約2カ月間の新入社員研修を終えて高田馬場の綜合研究所に初めて出勤した朝、守衛所の中にある出勤簿を印字するタイムレコーダーの前で1人の社員に声を掛けられた。「よく来てくれましたね」と言われ、その意味が分からなかったが、今になって思えばそんな言葉を掛けた気持ちがよく分かる。実はその時、会社は多額の負債を抱え、返済の大部分が利息の支払いに充当されるだけで借金は減らないという状況が続いていた。このような背景から、中外製薬は労働組合の活動が活発で、春闘のストライキと九州での学会発表が重なった際には、出張は許可されたが発表が終わると直ちに帰京するようにという条件を組合から付けられた。これも思い出の1つである。
妻とは69年10月19日に結婚式を挙げることが決まり、妻は大阪大学での勤め(青沼研での実験補助員)を辞め、大阪で花嫁修業をしながら結婚式や新婚旅行の段取りを進めてくれた。ありがたいことに私は東京に居て何もせずに済んだ。
私の家族や多くの親族が国鉄(現JR)阪和線や南海本線の沿線など、大阪府南部に住まいがあったので、彼らの利便性を考慮し、妻が選んだ式場は、南海難波駅の前に完成したばかりの「一栄ホテル」であった。
研究室には1学年下に後輩男子が3人いたが、彼らは式前夜、私の実家に泊まり、式当日の朝、父母らと一緒に式場に向かったそうだ。博士課程の先輩から、「おまえら、あほか!」と叱られたようであるが、私はこのエピソードを覚えていない。
初出:日経バイオテクONLINE 2016年10月3日掲載。日経BPの了承を得て掲載