【アクテムラとわが研究人生 vol.3 無為に過ごした大学・教養時代】
2024.09.17
無為に過ごした大学・教養時代
大阪大学の前身は浪速高等学校と大阪高等学校である。阪急宝塚線の石橋駅から東の方に10分ほど坂道を登って行った所に浪速高校の古い建物が残されていた。そこで教養課程の2年間を過ごした。自宅からバスや電車を乗り継いで、片道2時間をかけて毎日通った。1時限目の授業に出るためには6時22分に発車するバスに乗り込まねば間に合わなかった。日が短い季節では、電車に乗り換えた後に日の出を迎えた。
大学に通い始めて良いと思ったのは、万葉集の研究家であった犬養孝教授の授業を聞けることだった。万葉人が詠んだ歌に節を付けて朗々と大きな声で歌い上げ、それから歌の解説を加えていただいた。大学でなければ受けられない内容で、大学生になったのだと実感した。
しかし、それ以外の多くは退屈であった。欠席が許されない体育や英語などの科目を除いて授業には熱が入らなかった。1こま100分間の授業はとても長く、起床が早いこともあって授業の途中で睡魔に襲われて一眠りし、目を覚ましてもまだ講義が終わっていなかったこともあった。時には授業をサボって麻雀やパチンコを楽しみ、喫茶店で時間を費やすこともあった。試験の前になると友人の下宿に泊まり込み、一夜漬けの勉強をした。通学時間が惜しかったし、お互いに教え合うことで理解も深まった。
3年生になると薬学部の専門科目の授業と学生実習が始まった。薬学部は石橋駅の1駅南隣りの蛍池駅から歩いて10分程度の所にあった。
4年生になると特別実習が始まり、学生はそれぞれ自分の希望する研究室に配属され、卒業研究をした。私が選んだのは青沼繁教授(当時、以下特記しない場合は全て当時の肩書)が主宰する微生物薬品化学教室だった。与えられた研究課題はβ-アラニル・システアミンの合成であった。研究室の浜堯夫助教授に言われる通りに実施したら、特に苦労もなく合成できた。2年先輩の大学院生から「大杉は難しい反応に成功しても偉ぶりもせず平然としている」と不思議そうに言われたが、何のことはない、私にはその難度が分からなかっただけのことである。実験結果をノートの切れ端のような汚い用紙に殴り書きのような乱れた字で書いて提出すると、助教授は「あいつは、将来、全然駄目か、大物になるかどちらかだ」とあきれていた、と後で先輩から聞いた。
合成に成功したジペプチドは末端にチオール基を有していて、放射線防護作用を期待して作製されたものである。残念ながら、家兎を用いた実験で白血球増加作用を認めることができなかったので、この研究はここまでで終わった。その後、物理分析研究室に出向し、AICA関連化合物の合成を行った。同じく放射線防護作用を有する化合物を合成するのが目的であった。幾つかの化合物を合成して青沼研究室に帰り、動物実験で効果を検定したが、有効な物質は見いだせなかった。今にして思えば、放射線を家兎に照射して白血球が減少した状態で薬効を評価すべきであった。
大学院修士課程に進学すると胃ホルモンで胃酸とペプシンの分泌をつかさどるガストリンに関する研究が課題として与えられた。胃潰瘍の発症に役割を演じるのではないかとの学説を確かめる研究だったかと記憶している。
修士2年になると「総説講演」と呼ばれる課題が課せられた。幾つかの選択肢から研究テーマを選び、既に発表されている論文を検索し、総説をまとめて学部内で教職員、大学院生の前で発表するというものである。私は胃潰瘍について調査を進め、ヒスタミンが胃潰瘍の発症に強く関与しているのではないかとの推論にたどり着いた。数年後、ヒスタミンには2種類の受容体があることが見いだされ、画期的胃潰瘍治療薬としてH2ブロッカーが開発され、医療に革命を起こすことになる。その時には、到底このようなことを着想する力は備わっていなかったのであるが、何年もたって「自分の調査が良い線まで行っていたのだ」と何となく自信を持った。
研究室には、私の他に男性1人、女性4人が配属されていた。そのうちの1人の女子学生に段々と引かれるようになっていった。同級生6人全員で四国に卒業記念旅行をした時に、別の女子学生から「松本さん(妻の旧姓)は、大杉さんのことを好きだと思うわよ」と言われたのが始まりだった。修士1年の時に同じ実験台で肩を並べて実験することになって恋心がどんどん膨らんでいった。修士2年になった頃には、結婚したいと思うようになっていた。
初出:日経バイオテクONLINE 2016年9月26日掲載。日経BPの了承を得て掲載