【アクテムラとわが研究人生 vol.1 都落ち】
2024.09.03
都落ち
大杉が発明したヒト化抗IL6受容体抗体「アクテムラ」の立体構造。
赤色がCDR領 域、青色系はH鎖、黄色系はL鎖
大阪大学に在学していた当時、大阪を離れて地方に就職することを仲間内では「都落ち」と呼んでいた。東京は地方とは呼べない大都会なので、本来の意味からは外れているが、箱根を越えて東京に移住するのは関西人なら誰しも少なからず抵抗がある。ましてや大阪市の中心地の一角にある道修町には名だたる大手製薬会社が軒を連ねていたので、私が中外製薬に就職すると言うと、「なぜ、東京の会社に?」、と周囲の者は思ったはずだ。
中外に就職を決めたのには理由があった。同じ学部の先輩が研究室にしばしば訪れ、就職を勧誘し続けてくれたからである。それでもなかなか決心がつかずに迷っていた私の背中を最後に強く押したのは、「男が、一生の仕事を決めるのに、東京も大阪もない!」という、研究室の助教授の助言だった。
1969年春に中外に入社し、綜合研究所生物研究部に配属された。免疫学に取り組むことにしたのは上司 に勧められたからだ。日本免疫学会が設立される2年前のことで、社内には専門家は居なかった。そのため自由度が高く、ゆったり伸び伸びとした環境で研究生活を送れた。専門知識を吸収するために免疫炎症領域の学術雑誌を、時間をかけて読み込んだ。勉強すればするほど免疫学に興味を覚えていった。
薬学の大学院修了を目前にするまでは、人生を成り行きに任せ、「のほほん」と過ごした。志や野望などとは全く縁の無い無気力で平凡な人間だった。ところが、内定をもらってから入社数年後までの間に、すっかり先輩に洗脳され、使命感や夢が一気に芽生えた。その結果、「病気に苦しむ患者さんに福音を与えられるような優れた新薬を発明したい」と考えるようになった。それからは試練の日が続いたと言いたいところだが、持ち前の楽天的で能天気な性格のせいか、結構楽しい研究生活を送った。
その後、免疫抑制薬や抗アレルギー薬の研究に取り組む中で出会ったのがカルフェニールである。84年に我が国最初の関節リウマチ治療薬として発売されたこの薬剤が、私のライフワークとなるアクテムラの礎である。カルフェニールの研究が高じてアメリカで自己免疫疾患の病因解明研究に関わることになり、そこでの2年9カ月にわたる研究成果がアクテムラの科学的源泉となった。
画期的新薬の研究は極めて不確実性が高く、成功確率は2万分の1とも3万分の1ともいわれる。アクテムラの場合、プロジェクトを開始したときには、まだ標的分子が定まっておらず、先は全く見えなかった。このようにリスクの高い仕事は、不成功を恐れない冒険心がなければ始められないし、始めてから先にも幾つもの難関にぶつかり挫折に追い込まれる。しかし、患者のためを思えば、やるべきことをやらなければ悔いが残るとの思いが勝った。度重なる幸運が味方となって日本初の抗体医薬「アクテムラ」が関節リウマチ治療薬として誕生したのは2008年だった。米国留学から帰って27年の月日がたっていた。その間、既に有効性に優れた生物学的製剤が市場を席巻していた。標的分子が異なり、アクテムラは既存の生物学的製剤と比べて利点を有していることを訴えても市場浸透のスピードは鈍かった。しかし、アクテムラの評判は日増しに高まり、現在、世界90カ国以上で発売 され、65万 人近くの患者の福音となっている。
偉業を成した立派な方と比較するのもおこがましいが、彼らの回顧録には、大抵、幼少の頃から高い志と目標・夢を持って勉学に励んだと記述されている。しかし、私にはさして大きな志は無く、成り行きで大学、大学院に進学し、至極平凡な人間に育っていった。そのような私がいかにしてアクテムラの誕生にか関わることになったのかを記すことが、イノベーションの創出を目指す若者に勇気を与えられるのであれば望外であるとの思いを持って筆を進めていきたい。
初出:日経バイオテクONLINE 2016年9月12日掲載。日経BPの了承を得て掲載