【アクテムラとわが研究人生 vol.2 義を持って征く】
2024.09.10
義を持って征く
槇尾川は和泉山系の槇尾山を水源として、東南から北西に向かって大津川に合流し大阪湾に流れ込む。河口から7kmほど遡った辺りで、それほど高くない山と山の間の谷あいを流れるこの川に沿って道路が通り、その両側に細長く家並みが続く。最寄りのJR阪和線和泉府中駅までバスで20分弱かかる田舎だったが、織物業で栄えていた。大学・大学院卒業までこの実家から通った。
父に召集令状が届いた矢先、母は産気づいた。予定日よりも早めの誕生だった。「義」を持って「征」く、という意味で「義征」と名付けられた。父による命名で「よしゆき」と読むが、なかなかそのように読んでいただけない。小学校の教員で書家でもあった父・喬二(たかじ)と母・時(とき)の次男として1944年8月10日大阪府泉北郡北松尾村大字内田(現 和泉市内田町)にて出生した。
父は教育者らしく、厳格な性格でいつも周りの人々の模範でなければならないと思う、誠実な公僕であった。台風が接近して来た時のことを今も忘れられない。自分の家の強風対策もしないまま、勤めている学校の様子が心配で、そちらに向かった。幼心に父の責任感の強さを目の当たりにし、父を誇りに思った。祖父も小学校教員を務めた教育者の家系である。
母は同郡伯太村の出身で、祖父は堺市役所の収入役を務めた。曾祖父が伯太城(渡邊藩)の家老であったことから母は幼い頃は近所では「姫」と呼ばれていた。育ちのせいかおっとりとして落ち着いたおとなしい性格で、物事にとらわれない、なるようにしかならないとどっしりと構えていた。何事にも出しゃばるようなことはなく、いつも父に従い、後ろからついていくタイプの人だった。
幼い頃は、年齢が近いせいだと思うが、兄よりも姉によく面倒を見てもらった。近所の友人の家に遊びに行くときに一緒に連れていかれ、毛糸編みなどの裁縫やおじゃみ(お手玉)など女の子の遊びをした。姉は学校で何か困っていたら助けに来てくれるような頼りになる存在だった。姉からは「ボク」とか、「ヨシ坊」と呼ばれ、末っ子の甘えん坊として育った。祖母もよく遊んでくれた。畳の上に座ってボールをころころと2人の間を行き来させて転がす遊びが好きだった。
小学校に入学したのは、終戦から5年後。北松尾小学校は隣町の唐国町にある。1年生の足で家から30分ぐらいを歩いて通った。父が32年のオリンピックの体操の種目の代表候補だったせいか、私も子供の頃から運動が得意だった。小学校低学年の頃は相撲がめっぽう強く、背は低かったがクラスで一番背の高い者を投げ倒した。ドッジボールでは常に最後まで残って相手チームのエースとの一騎打ちになった。
中学ではバレー部に入り、バックセンターを務めた。体育の授業では空中転回を会得し、運動会で演技を披露した。屋外で体を動かして遊ぶことに夢中だった子供時代を過ごし、中学校に入っても定期試験の前に勉強する程度であった。
近隣の北松尾中学から府立三国丘高校に進学し、大学進学に際しては、最初は大阪大学工学部電子工学科を目指した。将来の発展が期待でき、花形産業になる分野だからと感じてのことであった。しかし、毎月受ける模擬試験の点数は合格点に達しなかった。大学4年生になっていた兄の勧めもあって、薬学部を受験することを決めた。薬学を学ぶことに特別に興味があったわけではない。大阪大ならどこでも良いという気持ちで、自分の成績と照らし合わせて合格できる可能性がある学部を選んだのである。
決して裕福な家庭ではなかったので、私立大学には進学できないと自分で決めていた。大阪大に合格できなければ、国立の二期校に行けば良いと思っていた。試験の雰囲気にのみ込まれることを心配した姉が、場慣れするようにと同志社大学工学部の受験を勧めてくれ、受験料を支払ってくれた。だから、同志社大に合格したが、入学金は払っていない。
初出:日経バイオテクONLINE 2016年9月20日掲載。日経BPの了承を得て掲載